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8月31日 休み明けから今週一週間やたらと忙しかった。新しいイベントが始まっているが、まだ10個ぐらいしか集めてなくて、BOSSすら自力で見れていない。まぁ忙しい時はこんなものか。むしろ、こんなところに忙しい、忙しいと書いている暇がある分、まだそれほど忙しくは無いのではないか、と自分で突っ込んでみたり。 別に忙しいのは問題ない。自分で休みの計画を立てて、今週がんばれば何とかなるかと予定していたのだから。問題は、そういうときにかぎって、トラブルが発生したり、急に別のノルマをこなさなくてはならなくなったりといった、不可抗力である。これが腹が立つ、ただでさえ忙しいのに!という気持ちになる。 しかし、その不可抗力のほうにも罪は無い。たまたま、忙しいときに来てしまっただけなのだ。トラブルだってたまたま起きたに過ぎない。いつだって起こる可能性はあった。ようするに心の余裕が無い。いらいらの原因は結局自分の中にある。まだまだ精進が足りないようだ。 教訓、どんな場合でも2割ぐらいの余裕を持って計画を立てると良い。持てる力めいいっぱい全力をだしきって事に当るとろくなことは無い。 8月29日 感じたことや考えていることを自分の言葉にするというのは難しい。みんないろいろなことを思っているけれど、それを正確に言葉にできる人はあまりいない。 自分の気持ちをぴったりと表現することができないから、それとはとんでもなくかけ離れたことをわざと言ったりやったりするんだ。そして無意味に人を傷つけたり、自分が傷ついたりするんだ。 8月23日 ヒキコモリ。 「引き篭もり」という言葉にマイナスのイメージを抱く人は多い。マスコミの過剰な報道により定着してしまったようだ。しかし、元来多くの偉大な先人達は引き篭もりによって物事を成してきた。引き篭もりとは、周りに邪魔をされず一人で仕事に集中する時間ではないのか。これができない人間は、多くの場合まともな仕事をすることができない。引き篭もり力のない奴は、いつでも周囲に頼り周囲を巻き込む、そして周りにアピールをするだけで実際には何事もしていない。 引き篭もっていると、他人からはなにをしているのか観察できない。観察できるのは外に向かってアピールしているときだけである。だから、仕事をなした人間や才能のある人間を目にすると、外に向かってアピールしているイメージがあるが、実際はその何十倍も引き篭もっている時間がある。人を笑わせる芸人、論文を発表する研究者、素晴らしいアスリート達など、そんな場面だけが目に見えるが、実際に彼らをその場所に、地位に立たせたのは、見えないところに篭って行われているたくさんの努力のためだ。アピールだけする人間に本物はいない。 もっとみんな引き篭もれっ!そして自らの仕事をなせ。その努力が力となる。 8月20日 成功の確率を評価することは難しい、しかし探索を試みない限り、成功のチャンスはゼロである。 紀州犬の子犬テイム失敗。ぐふっ。 8月13日 音楽には力がある。 モウダメダと思ったその瞬間に、何故だかラジオから、コンビニの有線放送から、携帯の着信音から音楽が聞こえてくる。大丈夫もう少しだけがんばってみろよって励ましてくる。まるでできすぎたドラマの主題歌のように。なんでだろう。そして、そんな詩が、メロディーが今まで私に何度もパワーをくれた。その力であと一歩だけ、もう一回だけと逃げ出さずに前へ進めた。 つらいとき、かなしいとき、不安なとき、よくわからないとき、少しだけ耳を澄ましてみるといい。誰もがどこからともなくかかるあなただけの『主題歌』を聞くだろう。 8月12日 幸運は限りない努力の果てに、ほんの少し顔をのぞかせるが、不運はいつでも親切で、自分の部屋までやってきてくれるのだ。 望んでいないときに、たっぷりと、何度でも。 8月8日 正義は身の毛のよだつ悪にもなりうる。 自分達は正義なのだから何をやってもいい、という考え方は、危険である。世の中には絶対的な正義など存在しない。ひとりひとりが考える個人的「正しさ」と「悪さ」があるだけだ。そしてそれらが多数派をなしたとき社会的正義、社会的悪となる。 東京北区で少年ら5人が、公園に住むホームレスに嫌がらせをし、ついには放火殺人未遂にいたるという事件が起こった。主犯格の少年は「ホームレスはゴミだ。人間として最低で世の中の役に立っておらず、犬や猫と一緒。生きていようが死んでいようが気にしない」などと話しているという。この事件を耳にしてぞっとした。それは、私の中にも確かに、ホームレスを忌み嫌い、嫌悪する感情があったからである。そして、そのような考えが多数派を占めることで、この少年らが正義の名のもとに犯罪を犯すことになったのかもしれないと思ったからである。自治体が公園のダンボールハウスを強制撤去したり、座りにくいベンチや邪魔なオブジェクトを配置したりする代わりに、自分達がやってやるよと考えたのかもしれない。この根っこにある個人的「善」と「悪」は私もこの少年らも一緒だったのである。 しかし、日本は法治国家である。罪は法のもとに検察官が告発し、法のもとに裁判官が裁く。自分は社会的正義、相手は社会的悪。だから彼らをいたぶるのは社会的に認められた行為だと考えることは、自らのサディスティックな感情を満たしているに過ぎない。自分勝手な正義感を振りかざすことは認められない。そのことをわかっていたか、わかっていないかったかが、この少年らと私とを決定的に隔てたのである。 リネの中にも、自分は正義、あいつは悪、正義が悪を裁くのはどんな手段をとってもよい、悪の側には謝罪とキャラ削除以外に道は無い。そんな正義感が横行しているように感じる。ゲームの中の話じゃないか、何そんなにムキになってんだよというかもしれないが、私には時代を映す鏡のようにも思える。
8月6日 広島原爆の日。 夏になると、広島はカタカナのヒロシマになる。それが悲しい。 これは広島出身の知人がよく言っていた言葉です。確かにカタカナでヒロシマと書くと、これは原爆と同義語になる。「No more Hiroshimas」というスローガンからも、ヒロシマが世界中で同じニュアンスを持っているということがうかがえる。 いつの日か世界から核兵器が廃絶されたとき、ヒロシマが負のイメージから開放され、その第一歩を標した街ヒロシマとして、ヒロシマが平和と同義語なることを願ってやまない。 8月5日 アデナを貯める人とすぐ使う人とがいる。私はどちらかというと、というより完全に前者のタイプだ。消費してしまうと、そこで楽しみが終ってしまって、その状態になるぐらいなら今のほうがよい、と感じているからである。倉庫を眺めて、これだけあればあれも買えるこれも買えると、一人ムフムフしているのが楽しい。 しかし、本当に楽しいのは、もちろんアデナを使うことである。これは間違い無い。アデナを貯めるより使うほうが断然楽しいだろう。貯める人になるか、使う人になるか比べてみたら一目瞭然。ただ使用後よりは使用前のほうが良いという感覚がその次に生じるわけだ。使用中が一番楽しいのはもちろんわかっているのだが、使用中というのはかなり短い。それ以外は使用前と使用後がずっと続くわけである。それなら使用前が長いほうがいいかなと考えているわけだ。 もちろん、装備や魔法を買えばその分強くなるし、その分優位になることもわかっているのだが、あれとこれとそれをかってこれだけ強くなっても、まぁ今よりいけるところはあまり変わらないかなと、予想がつく。そうなると、そこへ至るプロセスのほうが楽しくなってきて、そこへ比重が移ってくる。稼いで貯めるのが楽しい、とはこういう感覚だろうか。わからない人にはさっぱりわからないかもしれないが。 いつものように、別に貯めることを推奨しているわけではないので、勘違いしないで頂きたい。貯めようが使おうがそれぞれのプレイスタイルで楽しめたらそれでよい。 8月2日 プライドという病。 プライドが傷つきやすい人は、たいてい自分と他人とを比較する。他人と比較しすぎるから、自分に少しでも劣っていると感じるところがあると、傷つく。自分が他人よりも勝っていればそれで満足するのだが、リネでも、もちろん現実でもずっと勝ち続けることはできない。どんなに自分が強くても、世界には色々な人間がいる。いずれは、どこかでなにかで、負けるときがくる。そのとき、自分に見合っていない高すぎるプライドを持つ人は、その傷つきに耐えられなくなる。 自分で勝手に他人と比較して、そのことで自分のプライドが傷つくから、相手を自分か自分より下の位置まで引きずりおろして、そこで自分のプライドを満足させようとする。自分は10持っているけど、よくよく見渡すとまわりにも10持っている奴はいっぱいいる。それでは自分の高すぎるプライドを飼って行けないから、妨害や嫌がらせをして他人を10よりも下げる。自分を11や12にする努力もしないで。 人が他人と比べることからまったく自由になることは、確かに難しい。しかし、なんでもかんでも上か下か、強いか弱いか、点数をつけて比較してしまうことが問題なのではないか。大切なのは、あいつにはこの点ではかなわないと、素直に認めることができて、でも、私にはこういういいところがあるさと、人それぞれ違ったところがあり、優れたところ劣ったところがあるのだということを自覚できるかどうかではないだろうか。 本来、プライドを持つということは、自分を尊ぶと同時に他人をも尊重するということである。MMOをするからには、人と比較して俺はスゴイぞとなるのではなく。自分は自分なりの能力が発揮できれば面白い、というプレイスタイルができればよい。そのほうがゲームを楽しめるし、そのときそのときをうまく乗り切っていける。 8月1日 人は自分に自信があるときには、自分の意思をはっきりと伝えられる。嫌なことは「イヤ」という。してもらいたいことは「お願いします」と頼む。ところが、シャイな人は、自分に自信が無いから、自分を取り繕う。遠まわしな言い方をする。間接的な言い方をする。だから相手はなにをいっているのかがよくわからない。はっきりと自分の意思を伝えないから、人とうまくコミニュケーションできないのである。 「いえ、僕はどちらでもいいですけど」とか「あなたがそうであるならそれでいいです」とか「私は別に行きたいというわけではないのですが」とか、とにかくはっきりとしない。シャイな人は、迷惑をかけて嫌われることを恐れる。図々しい人だと思われることを恐れる。その恐れや不安が先行して、こうしてほしいという自分の願望がうまく伝えられないのである。 人と効果的にコミニュケーションするためには、自分に自信があると同時に、自分と相手の関係がわかっていなければならない。自分は今、親と話しているのか、恋人と話しているのか、昨日知り合った人と話しているのか、初対面の人と話しをしているのか、目上の人と話しをしているのか、親友と話しをしているのか、などの関係がわかっていなければならない。だらしの無い格好は人前ではしない。それがマナーである。しかし時には、親しい人の前でだらしの無い格好をしてもよい。それが許される。それが親しいということ。なんでも話せるという人間関係がこれである。誰にでもなんでも話していいというわけではない。シャイな人には、馬鹿な自分がこの人には受け入れてもらえるという安心感が無い。この安心感が自信に繋がる。 シャイな人は、もっと自分の気持ちを言わなければならない。恥をかいてもいいから言う。そうすれば世界が広がる。自己主張というのは我を張ることではない。自分のことを説明するのが自己主張。言うべきことを言うのが自己主張。人を無視したことを言うのはワガママ。 シャイな人は助けを求められない。小さい頃から自分ひとりで生きてきた。誰も助けてはくれなかった。周囲には誰も頼れる人がいなかった。人が自分のことを助けてくれるという感覚が無いままに大人になった。人に助けてもらうという習慣が身についていない。そして、それがつらいことだという意識の無いままに生きている。だから、実はものすごくがんばって生きているのである。本当は自分に自信を持っていい。普通の人には到底できないことをしてきたのである。誰にも助けてもらえないで一人でここまでがんばって闘って生きてきたのである。誰がここまでできるか。 |