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10月24日 学力。 全国学力テストの結果が公表された。しかし、あれだけ点数は問題にしないしない言い続けてきたはずだったのに、新聞やネットでは、やれどこの県が一位だった、最下位だったとか、平均はいくらいくらだったとかそんな結果ばかり。ま、それこそ目に見えていた結果だったか。内容はというと、基礎的な学力にくらべ応用力が身についてないという結果だそうだが、全体の8割の基礎知識が身についていて、さらにそのうち8割が活用できているのなら上出来じゃないかと思うのだが、どうだろうか。 基礎学力の低下が叫ばれ、ゆとり教育が見直されようとしている。この結果をどう受け止めるのだろうか。私はやはり、ゆとり教育は間違っていなかったと思うのだが、問題があるとすればその運用方法である、空いた時間に創造的なことをできるかどうかだ。真の学力とは、知識の量でも計算の速さでもない、自ら考える力、自ら学ぶ力である。 私が大学に入って、まず思ったことはそのことだった。中学、高校までの勉強には必ず答えがあった。テストの問題は、調べたり、先生に聞けばどんなに難しい問題でも正解がわかった。ところが大学に進み専門的なことを学ぶようになって、わからないということがすごく当たり前のことになった。学問はもっとずっと先まで進んでいるものだと思っていた。でも、そうではなかった。わからないことは自分考え納得するしかなかった。こんな幼稚な知識で、人類はよく、橋を架け、海に潜り、宇宙へ飛び出したものであると感心した。 自分で問題を見つけ、自分で自分なりの答えを出す。これが本当に身に付けなければならない学力である。親も教師も教育委員会も文科省の役人も、こんなテストの点数に惑わされず、真に必要な教育を考えてもらいたい。 10月21日 ラグ:二つの事柄の間に生じる時間の隔たり。 厳密にいえば物事には必ずラグが存在する。目で見たものや耳で聞いた音を脳が判断して、手足を動かすまでには、どんなに早くても0.1秒ぐらいかかるし、光回線だって秒速30万キロメートルの壁を越えることはできない。その微妙な時間差を感知できるか、できないかの違いがあるだけ。 オンラインゲームとラグは切っても切れない関係にある。リネの初期の頃なんて、2、3秒のラグは日常茶飯事、一分ぐらい止まることもしばしば、カクカク動いて当たり前だった。だから2、3秒のラグなんてラグとすらよんでいなかった。そのぐらいの気分的余裕があったし、「狩り場の最大の敵はラグである」と、皆が認識していた。今みたいに、ラグはなくて当たり前という感覚ではなかった。 私なんかはずっとラグを続けるうちに、ラグを読めるようになってきた。ここでとまる、切り替わりに時間がかかる、とわかるようになってきた。ラグによる遅延を視野にいれ、それを織り込んでその先の出来事を予想してあらかじめ対処できるようになってきたのである。そういう訓練だと思えばラグもなかなか悪くない。 10月1日から気象庁による緊急地震速報がはじまったが、これもラグの有効利用であろう。車のブレーキング、経済成長、子どもの成長。なんだって一瞬のうちにはおこらない、ラグは必ずある。それを織り込んで行動できるかできないかだ。 10月17日 日本国憲法第二十一条は言論・報道の自由を保障している。しかし、憲法が報道機関に保障したこの許可証には、罠が組み込まれていた。マスメディアは、報道の対象となる人を破滅させてしまうことがあるのだ。現代社会では、あらゆる不正行為から身を守る手段が用意されているが、ジャーナリストに狙われた場合は、誰にも助けてもらえない。ジャーナリストは、昔の殿様のように特別な保護の対象とされ、事実上、法にも拘束されないのである。 今のマスコミは尊大さのかたまりである。マスメディアの本来の仕事は、事実や真実をつかみ、それを人々に知らせることである。ただそれだけである。謝罪を要求したり、罪を裁いたり、世論を決定することではない。人々がそれをみずから行えないなどと思っているのだったら、思い上がりもはなはだしい。 不祥事が起きるとすぐに、謝罪、謝罪、とジャーナリストは謝罪を求めるが、それはいったい誰が求めているのか。誰に向かって謝罪しているのか。記者の前で頭を下げればそれでいいのか。だいたいマスコミは何故マスコミを攻撃しない?自らの不祥事は、小さい訂正記事や、簡単なおわびテロップしか行わないくせに。そのときも、その取り消しや訂正が、最初にやらかした間違った主張ほど目立つことはほとんどないし、そもそも滅多に誤りを認めることがない。 「私の言うとおりにしろ、私のするようにではなく」などとは、小さいこどもにだっていえないが、それがジャーナリズムの世界では通用している。世間を騒がせたお詫びをさせるなら、そもそもくだらないことで騒いでいるマスメディアが先に謝るべきではないのか。 10月16日 勝ち方、負け方。 勝ち方には、いろいろある。そして、負け方にも、いろいろある。自分の勝ち方と自分の負け方の両方を身に付けるべきである。今の社会は、勝ち方ばかりに目がいって負け方を学ぶ機会が少なくなっている。親も教師も、競争に勝つことばかりを教え込む、ところがいざ負けたときには、叱るか、慰めるか、せいぜいその程度。負けたときや失敗したときにこそ、人は伸びるというのに。 ボクシング亀田家の騒動を見ていると、「負け方を知らないな」と思わずにはいられない。勝つことだけを、ただ勝つことだけを、子どもの頃から教えられてきたのだろう。全身全霊を賭けて全力で負ける術を知らない、教えられていない。本当は、今こそが飛翔のときである、この経験をうまく活かして、真の強さを身につけることができれば、と思う。 そして同じように、チャンピオン内藤にも、「勝ち方を知らないな」と思ってしまう。勝って兜の緒を締めよ。マスコミやその操る世論にチヤホヤされて、天狗の鼻が伸びているのではないか。いい気になっていると、マスコミにさくっと足元をすくわれますよ、亀田家と同じように。 強いとはなんだろう、勝つとはなんだろう? 10月15日 あの頃〜の未来に〜僕らは立っているのかな〜♪ 小学校の国語の時間に、「十年後の私」とか「大人になったら」なんていう題で作文を書かされたことがあるだろう。あの頃には、職業選択に適性や学歴や資格や年齢制限なんてものは関係なかった。だから、今よりもっとなりたいものがいっぱいあって色々なことを書いていた。マジシャン、考古学者、将棋指し、ラーメン屋、刑事、ギャンブラーなどなど。ガソリンスタンドの店員なんてのもあった。 通学路の途中にガススタがあって、よく道草をして、従業員の働く様を見物してた。ガソリンのにおいが好きだった。拳銃みたいなノズルを給油口に差し込んで、金色の液体をドクドクと注ぐ、メーターがカタカタと変わっていく。あんな面白いことを一日中してられるのがうらやましかった。洗車機が水を噴出し、ごうごうと回転しながら動く姿に体が震えた。制服はかっこよかったし、かぶっている赤と白の帽子が欲しくてたまらなかった。 あの頃の未来は、もっとずっとポジティブなものだった。ところが今や、ガソリンスタンドで働くには丙種危険物取扱者の資格が必要だってことを知っている。リッター百何十円のガソリンの店の儲けが、五円未満だってことも知っている。冬場の洗車は水が冷たくてつらいことも予想がつく。余計な知恵をつけられうらやましくなくなった。ガソリンの甘い芳香は、無垢でなくなった心には染み入らず、赤と白の帽子は打算の詰まった頭には似合わない。 子どもが大人になったかどうかの目安は、職業選択の幅がどれだけ狭まってしまったかなんだろうか。 10月9日 エピソードを重ねるたびに、ワールドは広がり新しい狩り場やモンスターが追加されてきた。しかし、狩り場がせまいという声が消えることは無い。なぜだろうか。 思うに、プレイヤーひとりひとりのテリトリーが広がったのではないか。テリトリーというか縄張り意識というべきか。初期のころは、狩り場では当たり前のように画面内に他人がいた。少ないモンスターを競い合うように狩りをしていた。しかし、同じ画面内にいても、それはライバル、つまり好敵手であって、侵入者ではなかった。辻ヒールをしあったり、毎日顔を合わせれば自然と会話があった。 今はどうだろう。同じ画面内で狩でも始めようものなら、邪魔者、侵入者という感じで相手を見るような人が増えてきているのではないか。そんな縄張り意識が、一人一画面から大きいときにはワンフロアにも及ぶ。そのためひとつの狩り場が収容できるキャパシティーが減っているのである。 別に場所を占拠する狩り方が悪いといっているわけではない。効率を考えればそうなるのもわかる。ただ、そこで一緒に知らない人と狩をしよう、という発想や会話が無くなったのが悲しい。ゾンビ部屋で順番を待ちながら会話してた頃や、撒餌をしながらその場にいた人がどんどん入れ替わり立ち代りで狩をしていた頃が懐かしい。あの頃は、今ほど皆がここは、これは、オレノモノという意識が強くなかったように思う。 「一緒にやりませんか?」この一言が言えれば、世界は今よりもっと広がるかもしれない。 10月5日 ロールプレイング。 Role-Playing(役割演技)という言葉の意味は、出生や社会的立場、仮想の人格などをキャラクターを通して演じるという意味である。同じ「君主」であっても、豪傑な人物、繊細な人物、明るい性格、クールな人物といったような個性を発揮することで、キャラクターは差別化され、その多様性が仮想世界での冒険の楽しみを増加させるのである。たとえ、プレイヤーが温厚でやさしい性格だったとしても、冷たく狡猾なキャラクターをあえて演じてプレイすることは、それが仮想世界に合致している限り、うまいロールプレイであるといえる。 最近、このロールプレイに逆に縛られている人が多いように感じる。ゲームにおいて、本来の自分に無い役割や理想とする人物を演じることは、それが仮想現実である限り、ゲームの楽しみ方のひとつだろう。ところが、現実において、しかも負の役割を自分に課している人が見られるようになった。不必要なまでに役割に縛られ自分を制限している人がいるのである。 自分にはナニナニする資格は無い、だとか、自分はコレコレをしなきゃらならない、とか。本当はそれは偽りで、自分の心の底にはアレアレしたいというシカジカの動機が隠されているのに、与えられた役割や期待される役割に縛られてそれができない。そんな人はいつも、本当の自分はこんなんじゃないと思っていて、それがストレスとなってどんどん溜まっていっている。 いい子であることを必要以上に期待される子供たちは、「いい子」を演じるようになる。そして演じ切れなくなったときに突然キレル。大食いであることを期待され、必要以上に食べ続ける人は、本当は苦しくても笑っておいしそうに食べる。傍から見ればどうみても摂食障害であるのに。医者だから政治家だから横綱だからと、本来の自分が役割に縛られてしまって起こる不祥事が絶えない。もっと気楽にすればいいのに。精神的障害を抱えてまで演じる役割などないのだから。 そうならないためには、自分はこうだ、なんてあんまり思い込まないほうがよい。 10月2日 名誉は誰もが欲しがる美徳である。名誉を欠く者でさえそれを欲しがる。だが、名誉というのは、実は負い目なのだ。名誉ある人だと見てくれる人たちに対する負い目。期待されていることを果たさねばならないという義務感。それが名誉の実態である。 リネージュの攻城戦は、最初は名誉の戦いだった。名を成す為の場だった。微々たる税収、二日に一回の防衛。それでも自分のクランと君主の名前のための戦いだった。戦争に参加するものは皆、力をもち、尊敬と信頼と名誉に値するキャラだと、すべての者から思われたがっていた。そのための戦いだった。 今はどうだろうか。戦争活性化のための、税収アップ、攻城戦MAPの変更、攻城戦日程の変更、城ケイブの実装と色々なアップデートが続いてきたが、最も基本的なことを読み違えているのではないか。今の城主クランには名誉が無いのである。城主であるというメリットだけ増やしても名誉は得られない。皆のためになるデメリットを追加してこそ名誉が得られるのである。 昔のように、城主クランが尊敬と憧れの眼差しで見られるような、攻城戦の復活を望む。 |