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12月26日 最近見なくなったもの。 不味いラーメン屋。昔は、はじめて入るラーメン屋は、美味いか不味いか一種のギャンブルだった。醤油をお湯で溶いただけのようなスープに、ナルトとぱさぱさのチャーシュー、店員のおばちゃんの親指の浸かったラーメンはどこへ行ってしまったのだろうか。 茶髪にロン毛。あれだけ、個性個性と叫んで染めていたのに、めっきり見なくなったな。みんなとは違うと思って、そうすることによって、結局みんなと同じになっていることにやっと気づいたのか。 子供たちのケンカ。大声で怒鳴りあったり、つかみあいのケンカをしているところを見ない。兄弟げんかですら最近はしないらしい。というかもともと兄弟がいないのかもしれない。ケンカはすでに完全な悪ということになっていて、ケンカをすると悪者ばか者はぐれ者の烙印を押され人生が狂うそうだ。しかし、その反動としてネットや集団でのいじめがはびこっているようにも感じる。 公衆電話と街中の時計。誰も彼も、携帯電話を持ってると思うなよ!! 12月22日 謝罪。 今年ほど、謝罪がニュースをにぎわした年もないだろう。毎日どこかで、誰かが頭を下げていたような気がする。しかし、本当に正しい謝罪が行われていたことは少なかったように感じる。謝罪とは何か、というところを根本的に間違っているのではないか。大事なのは、謝罪することによって相手の気持ちを収め、現状を変え、再発を防止することである。誰に対して、何を謝っているのかすら、さだまらず、今後どうしたいのかも見えてこない謝罪など、形だけの謝罪に過ぎない。 頭を下げるだけなら猿でもできるのだが…。謝罪の価値があまりにも低くなってしまった。ミスしても悪いことをしても、まぁ頭を下げてごめんなさいすればいいんだろ的な考えが広まってしまったのかもしれない。本当に自分の非を認めているのだろうか、本当に以後気をつけているのだろうか、見えてこない。 謝っておけば何でもよいという、自己本位の謝罪が蔓延している。相手の気持ちがわかっていない。例えば、相手がなにも被害を受けていないのに、最初から謝る人がいる。「ミスするかもしれませんが、ごめんなさい」。まだなにもしてないうちから、謝る気満々なのである。だったらそれをしないように気を付けろよ、と思う。先に謝られたら、なんだかこちらができそうもないことを押し付けたみたいな感じで気分が悪い。謝った上に相手の気分を害してしまったら、何をしたいんだか…。 なるべく波風を立てないようにという、和の心は日本人の気質であるのかもしれないが、せめて自分に非が無いときぐらいはやたらと謝罪をするのは避けよう。相手の気持ちをよく考えること、それが本当の謝罪である。 12月17日 リネの日記やブログを読んでみると、弱みを見せず強がったことばかりを書く日記と失敗やついてないことばかりを誇張して人を笑わせようとする日記の2パターンに分かれる。私なんかは、完全に前者のパターンである。 読む人のほうも2種類いて、強気な行動を見て自分もこうしてみようと考える人がいるし、また逆に、こんなについてないやつがいるのかと自分と比較して、まだまだこれに比べればとましかと考える人もいる。しかし自分の考えと違う方にぶつかると、一方は上からものを見ている、と鼻につくし、他方はどうしてこんなに卑屈なんだと、いやらしく感じる。 どちらがいいとか悪いとかの話ではない。どちらかにきっちり分かれいているわけでもない。ただ、自分の肌に合わないならば、読まなければいいのに、というだけの話。 12月15日 がんばったことはみとめるが、がんばったからそれでいいわけではない。 努力賞、よくがんばったで賞なんてものが通用するのは、せいぜい高校生まで、ひとたび社会に出れば、結果がすべてである。私は、毎日こんなにやって、誰よりもがんばりましたが、結果できませんでした、というのはただの言い訳にしかならない。 最近の政治家はそんなこともわからなくなってしまったのか。「嘘をつくつもりはなかった、懸命に努力している」、「誰がやっても結果は同じだった」なんていうのを耳にするたび情けなくなる。確かに、年度末まで5000万件すべて名寄せするなんて誰もが無理だと感じていた。だから何度も、「本当にできるんですか?」と問うたわけだ。そこできっぱり「やります、できます」と答えたのならば、言い訳などせずに、「できませんでした、申し訳ありません」と謝るべきだ。 こどもじゃないんだから結果で示せよ。口だけ達者な政治家など要らない。 12月12日 群れる。 20世紀は色々なものが集団から個人へ移行した世紀だった。大勢でしかできなかったものがどんどん個人で楽しめるようになった。音楽や映画鑑賞は王様でもなければ、ホールに行かなければできなかったし、スポーツ観戦もTVではできなかった。しかし、やはりこういうところに足を運ばなければ得られないものがある。場の雰囲気、臨場感というものだ。自分の他にも同じことをしている、同じことを感じている奴が隣にいるという感覚だ。同時であり、同じ場所であるがゆえに感じやすい。 同じようなことがゲームにも言える。そもそもゲームは、何人かが集まって行うものだった。将棋、歌留多、麻雀、人生ゲーム、かくれんぼ、鬼ごっこ。なんだって一人ではできない。それがコンピュータが発展したおかげで、どこでも好きなところで、ひっそりと一人で行えるようになった。しかし、場所も時間も自分の自由になったけれど、ここで何かが欠落したことは間違いない。 音楽を聴いたり、映画を見たり、スポーツを応援したり、ゲームをしたり、全部一人だけで楽しめるようになった。他人を気にすることのないシステムを築いてきた。これはとても自由なことで、とても貴重なことである。個人を尊重した社会が確立されつつある今に生まれてきて本当によかったと思う。 けれども、個人で何でもできるようなことが当たり前のこととなった今の時代には、逆に群れることが、贅沢なものになったのではないか。個の時代に生まれたものには。群れが未知であり、貴重なものなのだ。人間はもともとは群れる動物である、そういう本能があるのかもしれない。 だから、インターネットにしろ、コンピューターゲームにしろもともとはプライベートな世界なのに、群れたいという傾向が21世紀になって現れ始めた。ホームページに自分の趣味を発表して他人と共有しようとしたり、リネージュなどのMMORPGなんかはその典型だろう。Wiiが売れているのも、一緒に楽しむというコンセプトを推し進めているからではないか。これからは、群れることが贅沢になるのかもしれない。すでにそうか? 12月7日 かわいい初心者には旅をさせろ? 前回の話しの続き。リネは最初のうちは少し苦労したほうがよい。レベルをあげるにしろ、ACを下げるにしろ、苦労して乗り越えたときに達成感が生まれ、それが次へのやる気につながる。最初からフルゼル装備を貸したり、楽なレベル上げを手伝ったりすると、本当に苦労しなければならないときに、それが楽しみにならないし、だからやる気が生まれない。 一枚ずつゼルやダイを張っていく、そうやって強くなっていくのだという過程が楽しめるようにする。OE品を手に入れる苦労に比べたら、最初のうちのゼル張りの苦労など屁でもない、でもその苦労を乗り越える楽しさを味わわないと49Lvの壁は乗り越えられない。ちょっと冷たいようだが、それが私の思いやりである。 力になってあげたいと思うあまり、その人のその人自身で何とかする力や楽しみのようなものまで奪ってしまわないように気をつけている。 12月5日 若いときの苦労は金を払ってでもしろ。 苦労するのが楽しい、障害があると燃える、というのは、にわかには信じてもらえない。そんなはずはない、上手くいかないとイライラするし、全然面白くない、やらないですむに越したことはないし、楽にできるならそっちがいい、と考える人が多いようだ。でも少しだけ考えてほしい、すべてがすんなり思い通りにはこんでしまったら、やりがいはなくなるだろう。大金持ちになって、召使が何人もいて、なんでもどんなことでも誰かが解決してくれる、となったら毎日楽しみを探すのが大変になるに違いない。 リネもそう。レベルなんて少し苦労してあげたほうがいいし、レアも出ないうちが華。まぁ、そんなことが6年目にもなるとわかるわけである。まだまだ、欲しい物も残っているし、やってないことも色々あるかもしれない、という希望だ。 12月3日 気づけば今年も、もう師走。信じられない速さで刻が過ぎ行く。今年一年を振り返ってみようにも、これといった記憶がない。しかたなく過去ログを読むも、なんか愚痴愚痴かいてあるだけでナンダカナ。しかし我ながらよく一年も続いたものだとも思ったり。 ブログや日記は、三日目、三週間目、三ヶ月目、一年目が更新停止になりやすいの法則。いっちょブログでもやろうかと気合を入れたものの、やっぱり自分には無理だと気づく三日目。最初のうちは色々書きたいこともあるものの、ネタの切れだす三週間目。見に来る人も固定メンバーでカウンターもなかなか回らない、なんとなく更新頻度が落ち始める三ヶ月目。マンネリ気味になって、なんか全面的に一新したくなって新しいサイトを開設しはじめたりなんかしちゃったりする一年目。 ここも危ないよなぁ、最近更新頻度落ちてるし!みたいな? |