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9月26日 空耳。 外国語なのに、日本語に聞こえてしまう言葉というのがある。タモリ倶楽部の空耳アワーになぞらえてこういう言葉を空耳という。What time is it now.が「掘ったイモいじるな」は定番。他にも、スペイン語でレストランはtaberna(食べるな)だったり、中国語でトンチンカンというと東京港。タイ語でキレイは醜いという意味だったりと、空耳の例を挙げればきりが無い。 数年前に流行した空耳ソング『恋のマイヤヒ』(O.Zone)や『シェリーにくちづけ』(MichelPolnareff)は原詩が日本語に聞こえるということでブレイクした。それぞれルーマニア語、フランス語ということで、もともと日本人になじみの無い言語からか、余計な情報に惑わされず、すんなり日本語として聞き取れるので面白い。 もちろん、日本語が外国語に聞こえてしまうという逆のパターンもある。芭蕉の有名な句「古池や蛙飛び込む水の音」を外国語で空耳すると「Free care awards to become Ms Note.」となる。こんな空耳遊びを楽曲にしたものに『不思議な第3惑星』(聖飢魔U)がある。歌詞カードは英語で書かれているが、歌を聞くと全てが変な日本語に聞こえるというもの。こういう発想には感服する。 また、さらに進化すると外国語でも日本語でもほとんど同じ意味に聞こえる空耳というのもある。英語で「Have a eyes.(注意しろ)」は「危ない!」といっても通じる。ドイツ語で相手の言葉を聞き返すのは「Nanu?」(なぬ?)That you know.と「だっちゅ〜の」もほとんど同意義だったりして。 こう考えると、普段から口にしている何気ない日本語が、外国人には全然別の意味に取られてしまう可能性があるんだな、と思わされる。今日「麻生総理がasshole総理に聞こえてしまう」といわれナルホドなと思った。 9月25日 トップの寿命。 戦後の日本の首相平均在任年数は26ヶ月、最近の政局を見ていると、「え、そんなに長いの?」なんていう気もしてしまうが…。ちなみに、アメリカの大統領などに比べると半分以下の長さ。先進諸国の中でも特に短い年数である。別に長ければいいというものでもないが。 日本人は、独裁者とかワンマン社長とかを嫌う風潮がある。集団の意思決定をするとき、リーダーのトップダウンでは決まらず、多数決になることが多い。日本の場合リーダーとは、クラスの学級委員みたいな感覚で、たいした決定権も無く、ただのとりまとめ役にすぎないのだ。そのため、ちょっと気に食わないことがあったり、ちょっとミスをしたりするとすぐ降ろされることになる。 そんな短命な首相に任命される大臣は、おのずとさらに短命になる。あんなにころころ代えて大丈夫なものなのか。普通、どんな仕事だって一人前になるには一年ぐらいかかるものだが、一年もするとたいてい内閣改造が行われてしまう。そんなんで、行政改革なんてできるわけが無いと思うのだが。結局、大臣なんて名誉職なのか。 次の首相が、どちらになるかはわからないけれど、どちらにせよどーんと三年ぐらい腰を落ちつけ、リーダーシップを発揮してがんばってもらいたい。 それに比べてShellyの独裁政権は8年目に突入、そろそろ誰かが不信任決議案でも提出する頃だろうか…。 9月23日 無駄がない。 世の中からどんどん無駄なものがなくなっている。合理化し、スリム化し、役に立たないものを切り捨て、ただ無駄をなくすことだけを考えている。しかし、古来より人間を人間たらしめいていたものは、「無駄なことができる」という能力ではなかっただろうか。その他の動物と人間が根本的に違うのは、生きるために必要のない無駄なことに生きていくこと以上の力をそそげる点だったのではないか。無駄とは遊びであり、無駄とは余裕であり、無駄とは文化なのだ。 今、足りないものは無駄である。バブルの時代は、みんなが無駄をしていた。無駄が消費をうみ、無駄が雇用を生み、無駄が人々を明るくさせていた。ところがあるとき風向きが変わり、みんなが無駄をしなくなった。合理化は雇用を減らし、倹約は消費を減らした。確かに、際限のない無駄は地球環境的にはよくないかもしれないが、しかし、無駄のない社会もまた人類文化的には面白味にかけるだろう。 だいたい役に立たない無駄なものというのは、面白いものが多い。ゲームしかり、音楽しかり、芸術しかり。役に立たないから面白いんだ。みんなが無駄をもう少しだけ楽しめば、社会はもう少し明るくなるんじゃないかな。 9月20日 蟻とキリギリス。 ここで改めてあらすじを説明するまでもなく、誰もが知っている物語だろう。そのぐらいみんなの間に広まっている。日本では最後にキリギリス君が蟻さんに助けられるという結末が一般的だが、外国ではキリギリス君を見捨てる、あるいはキリギリス君を食べてしまうという話として広まっている。こういうところがいかにも日本的で面白い。 この話の設定では、蟻さんはイイヒトでキリギリス君はダメなヒトである。蟻は善でキリギリスは悪として扱われる。たしかに、現実に蟻を観察すると、毎日地道に働いているようだ。でも、キリギリスが特別遊んでいるようにも思えない。キリギリスだってキリギリスなりに生きるために働いているのではないだろうか。不当な差別だと訴えられてもおかしくない。 人間の社会はいかにも蟻型である。サラリーマンというのがもう完全に蟻的なのだ。毎日こつこつ働き、給料から保険料をひかれ、老後のため預金を積み立てる。老後のためとか、後で苦労しないようにとか、いかにも蟻的ではないか。 こつこつ働く蟻型の人生を批判しようという気は毛頭ない。とても堅実でとても正しい道だと思う。この道が一番楽な道であるし間違いがない。キリギリス型の人生のほうが生きるのは難しい。ただ思うのは、「老後のため」とか「あとで」というのが、人生のいつからなのかである。キリギリスをダメなヒト、その生き方を悪いものという目で見ていると、いつまでたっても蟻型から抜け出せない。働いて働いて貯めて貯めて、そこで終ってしまう。それが悪いというわけではないけれど、それでは何のために貯めたのだということになってしまう。それが65歳じゃちょっと遅いかなと思う次第である。 誰よりもキリギリス君を羨んでいたのは、実は蟻さんだったのではないだろうか。 9月17日 趣味はゲーム。 「あなたのご趣味は何ですか?」なんて聞かれることも、いいかげんなくなってきたけれど、「いい歳をした大人がいつまでもゲームをやっている」と、後ろ指を指されそうで、「ゲームです」なんて答えにくい雰囲気が日本の社会にはまだある。趣味がゴルフや旅行、読書や音楽鑑賞だったら問題ないのか?なんてひねくれてみたくもなる。いい歳をした大人がボールをカップにいれて喜んでどうする。わざわざパンフレットに載っている景色を見に行く必要性なんてあるのか。漫画を読んだって読書だし、カラオケだって音楽鑑賞だろう。と、果てしなくとげとげしてしまう。ゲームで何が悪い、大人が遊んではいかんのか、と正々堂々しても良いだろう。 だいたい私は、子どものときに「買ってもらえなかった」という思いが強い。やりたくてもやれなかったトラウマがある。友達の家で代わりに宿題をやったり、おもちゃ屋の試遊コーナーに通ったり涙ぐましい努力をしてゲームをしていたのだ。そしてそのとき、将来絶対自分で稼いだ金で遊ぶ、遊ぶために稼ぐのだと思ったのである。だから、私の趣味はゲームです。 9月16日 風説の流布。 風説の流布とは、有価証券の価格を変動させる目的で虚偽の情報を流すこと。金融商品取引法第158条で規制されている行為の一つ。しかしもちろん、リネージュではこのような規約がないので、アイテムの相場に対して行われていることがよくある。特にエピソードの変わり目に多い。 EPI:Reでは、地リングの高騰がまさにそうだし、アブソルートバリアの価格低下やルナロングボウの材料の高騰もそうだろう。韓国の情報を翻訳サイトを通してしか得られない、というのには大きな危険が潜んでいる。特に韓国情報の二大サイト、PF(プレイフォーラム)と、GA(ゲームアバウト)は読者投稿型の情報サイトであるということを踏まえて読んだほうが良い。悪意はなくとも多分に思い込みの情報が混ざっていたり、高く売るためにわざと有用な実験データを捏造したりということがある。 インターネットを活用するうえで、情報の信頼性というものには、いつでも注意しなければならない。誰でも手軽に情報を発信できるようになったのはいいが、その発信した情報について各自が責任を持つというところまでは、インターネット文化は成熟していない。日本では新聞や書物については文責という考えが定着しているので、その延長線上にインターネットもあるだろうという感覚が抜け切れていない。ネットで読んだことをすんなりそのまま信じてしまう傾向にある。特に最近流行のブログなんていうのは、個人の噂話程度のもので、話半分、尾ひれ背びれも付いているようなものだと思って読むのがよい。 さて、巷で噂のパンプキン装備は風説の流布か否か。 9月9日 ネガティブキャンペーン。 選挙のライバルや他社の製品などにたいして、自分の優位性をアピールするのではなく、徹底的に誹謗や中傷を行うこと。最近の与党対野党の戦いを見ていると、ほとんどがネガティブキャンペーンであることに気づく。あれはダメだ、これもダメだ。それをしたからおかしくなった、このままではもっとひどくなる。だから自分たちに、と訴える。つまり「相手が悪い。それに比べると自分は悪くない」という理論である。もっと「自分たちのここがいいんだ」という主張をして欲しいものだ。 過去の失敗や他人のあやまちを指摘するのは、後出しジャンケンをしているようなもので、誰にだってできる。(そう、私にだってできる)誰だって結果がわかっているなら、そんなミスを犯すはずが無い。現在の結果という全てを見通す完璧な眼で過去を誹謗するぐらいなら、不完全であろうとも未来を見る眼を育てて欲しいものだ。 本来、相手の悪口を言うことは悪いことだという感覚が日本人には強くあったと思う。「馬鹿って言った奴が馬鹿なんだからっ」というのを、くだらない子どもの口げんかと侮る無かれ、見事に本質をついてる。しかし大人になるにつれ、その感覚が薄れていっているようだ。ワイドショーがもてはやされ、他人をこき下ろす毒舌キャラが受けたりする。 最近「お馬鹿」キャラというのも流行しているが、これもネガティブキャンペーンのようなものか。もともと、馬鹿というのは相対的なものさしなのだ。寝ている人は、起きている人よりも馬鹿だし、いまどきの高校生よりは、ガリレオやニュートンの方が馬鹿だろう。しかし、そう思ったところで自分の頭が良くなるわけではない。「お馬鹿」キャラたちが見せる発想や一瞬のひらめきのほうがよっぽど天才的である。周りを自分より低く見て、それで一種の高揚感を得るというのは、誰にもおこる心理ではあるが、それをなるべく戒め、自分を高める行動をしていきたいものだ。 |