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 11月29日

 皆がやっている。

 日本人の規範意識は、ときに法律よりも皆がやっているかどうかが優先されることがある。スピード制限をオーバーしたり、赤信号を渡ったり、タバコをポイ捨てしたり、誰しもがやっていることだとそれが悪いことだという意識が低くなる。そのことを咎められると、自分の行為はさておき「皆やっているのに、なんで私だけが」と、憤る。

 北海道の高校生21人が集団で万引きをした事件があったけれど、学校のクラスという集団の中では万引きが日常的に行われていて、そのことが罪の意識を薄れさせていたのでは無いだろうか。

 問題は、自分の中に絶対的な規範意識がないことである。周囲と比べてどうなのかだけが善悪判断の基準になっているのだ。こんなものを、日本人の和の心だとするならば、そんなものは無くていい。

 リネでもよく、「○○してもいいんですか?」なんてゼンチャで聞く人がいるけれど、それを聞くというのは、自分では迷惑になることだという意識が少しはあるからで、それが他の誰かがやっているからやっていいということにはならない、と思うのだが。

 正直者は馬鹿を見るって?馬鹿でもいいじゃない。誰に言われなくても、自分で自分を律することのできる奴はすごいと思うよ。

 11月27日

 「そのような誤解を与えたとするならば、お詫び申し上げます。」

 政治家が失言をするたびに、毎回同じセリフを聞かされるけど、答弁マニュアルでもあるのだろうか。そもそも、そんな誤解されるような表現を使うぐらい独創性に富んでいたのならば、もっと気の聞いた言い回しができてもいいだろう。謝っとけばいいんだろう的な態度が目に付く。

 もともと、言葉といういものは誤解されやすいものなのだ。どんなに言葉を尽くしても、万人に共通の理解を得ることなど不可能に近い。それは、同じ言葉でも人それぞれもっている言葉のイメージが違うからである。「犬」といわれて、自分の飼っている小型犬のことをイメージする人もいれば、子どもの頃に噛み付かれた大型犬のことをイメージする人もいる。「茶色」なら、コーヒー豆のような濃い茶色からベージュに近い茶色まで色々な茶色のイメージがある。「茶色い犬」といえばただの「犬」よりはお互いイメージが近づくだろうが、それでもやっぱり同じイメージを持つことは難しい。

 このことを理解していれば、誤解をなるべく小さくするために、普段からなるべく平易な表現を用いなければならないことに気づくし、こういうことを言ったら別の意味に誤解される可能性があるな、ということにも気づくはずなのだ。どうも小難しい表現を使うことがインテリジェンスだと誤解している節がある。自分の理解はわかってもらえて当たり前、誤解するお前らがおかしい、という態度はいかがなものか。

 政治家及び官僚用語例

 ・記憶にございません:はい、その通りでございます。
 ・粛々(しゅくしゅく)と:反対意見には耳をふさいで強行します。
 ・遺憾(いかん)である:悲しいけれど、それが現実なのよね。
 ・文書で回答します:わかりません。
 ・吝(やぶさ)かではない:やらないと言っているわけではないけど、やらない。
 ・善処いたします:やると見せかけるけど、やらない。
 ・検討します:検討予算はもらうけれど、結論は出ている。やらない。 

 11月26日

 チャット。

 ある親子が食卓に座っているとする。子どもが醤油やソースが載ったお盆を指差しながら「それ」という。すると、お父さんが醤油のビンをとって、子供に「はい」と言いながら手渡す。こんな会話が日本中の食卓でされていることだろうけど、子:「それ」、父:「はい」なんて文字だけにすると、なんのこっちゃいという感じになる。

 これが現実に会話として成立するのは、子どもが身振りで注意を引いていて、発した「それ」の音の調子が頼むような口調であり、父は、子どもが今食べようとしている目玉焼きには、ソースではなく醤油をかけることを知っているからである。

 現実の会話では、身振り手振り、表情、お互いの共通の認識、目や耳など五感で感じていることなど、話した言葉そのものだけでなく会話に付属する色々なものがあって、それらが足りない部分を補足している。これらを抜きにして、単に会話を文字にしてチャットをしたのでは意図した情報を伝えることはできない。

 特に、人間のコミュニケーションにおいて、表情や仕草、口調といったものは重要な役割を果たしている。笑いながら「馬鹿」というのと、見下した口調で「馬鹿」というのと、相手に聞こえないような小さな声で「馬鹿」というのでは、同じ「馬鹿」でも全然受け止め方が違うだろう。

 チャットをするとき、自分は笑いながら「馬鹿」といったつもりなのに、相手には見下した口調で「馬鹿」といわれたように受け取られてしまうという危険性が発生している。こんな大げさな間違いでなくとも、些細な取り違えならば毎回確実におこっていることだろう。生身の会話ですらそんなことが頻繁に起こっているのだから。

 チャットというのは話し手だけでなく、聞き手にも力量を問われるコミュニケーション手段なのだ。相手の発した文字を、相手の身になってとらえなければならない。どのような状況で、どのような意図をもって、誰にどういう口調で発した言葉なのか、客観的にとらえる力が必要となる。

 チャットのデメリットばかり挙げてきたが、チャットにもメリットはある。漢字や絵文字が使えること、ログが残ること、少し考えてから発言できること、そして生の会話とは逆に、表情や仕草、相手の立場などに影響されずに直球の話ができることである。これらのメリットを上手く使って、チャットをすれば、チャットは大いにコミュニケーションの助けとなる。

 ただし、忘れていけないのは、チャットと生身の会話とは、同じ言語を使ったコミュニケーション手段ではあるが、全然別のものなのだという感覚である。ついつい目の前に相手がいる感覚でチャットをしてしまうが、それではダメなのだという意識を持つことである。

 11月21日

 手段のためには目的を選ばない。

 昔、『狭い日本、そんなに急いでどこへいく』なんて交通標語があったけど、差し詰め今のリネージュは、『狭いアデン、そんなに急いでどうするの』といったところか。

 なかなか上がらないレベル、すぐには出ないレア、時間のかかるクエスト。こういったマゾいともいわれる仕様がリネのよさでもあるはずだ。すぐにはできない、時間と手間をかけて育てるからこそ愛着がわく。そこに価値が出る。同じ困難に挑む仲間が見つかるのだ。 

 だから私は、あえて遠回りをしてみる。目的を達成することを目指しながらも、それを達成してしまわないことを目指す。出来上がってしまったものには価値が無い、出来上がるまでの過程にこそ価値があるのだ。

 11月12日

 少数派であることを恐れない。

 人々は、気候変動や森林の減少により、世界中から多様な種が失われようとしてることは心配しても、人間の文化的多様性については、それほど心配していないようだ。北京にもリオデジャネイロにもマクドナルドがあり、モスクワでも東京でも同じブランド品が買え、ベルリンでもカイロでも同じ映画が興行している。「便利になってよかった」と人は言う、しかしメジャーは時にマイナーを一掃してしまう。マクドナルドの影でつぶれた郷土料理屋がいくつあったろう。今まさに、消えていく民族衣装、民族芸能がいくつあるだろう。

 黒澤明がスピルバーグにインスピレーションを与え、ゴッホは浮世絵から学んだ。多様性こそが進化の原動力なのだ。グローバル化と合理化は単一化をうむ。人間みんなが、同じ時に同じように考え同じように行動することとなったら、そのとき文明の進化は止まるだろう。

 スクエアとエニックスが合併して素晴らしいものが生まれたか、否、過去の遺産を食いつぶしているだけ。ダイムラーとクライスラーが合併して生き残れたか、否、GMに吸収されようとしている。三菱とUFJが、ロッテと雪印が、否否否。互いに競争しあっているからこそいいものが生まれたのだ。

 多数派になることこそを恐れろ、人と同じになることこそを恐れろ。

 11月8日

 騙しのテクニック。

 カモは催眠状態になくてはならない。恍惚としているが、興奮している必要もある。カモは自分のスピードによって倒れるのだ。貪欲がそのスピードと力なのだ。貪欲でない人間は絶対に詐欺の被害を受けない。だからカモを貪欲にする要素を計画の中に組み込んでおく必要がある。
 『笑うカモには』(レン・デイトン)より

 以前、子どもの頃になりたかった職業はマジシャンと書きましたが、マジシャンも詐欺師も人を騙すという点では同じかもしれません。

 マジックをするとき、最も騙しやすいのは、自分だけは絶対に騙されないぞと目を皿のようにしてマジシャンの一挙手一投足を見守る人です。結果、そんな人は「マジシャンの右手も左手も見ていたのにひっかかってしまった」、と嘆くことになります。

 マジシャンは手先の器用さで人を騙すと思われていますが、そこにタネがあることはありません。実際にマジシャンが欺くのは観客の目ではなく、観客の心理だからです。貪欲なカモも、騙されまいと思う観客も、すでに催眠状態に陥っていることに気づいていないのです。

 マジシャンが「タネも仕掛けもございません」、と言う。すると、観客は「そんなこと言って実際は何かタネがあるんだろう」、と思ってしまう。ここで観客はすでに心理トリックに引っかかっているのです。マジシャンは騙そうとしているのだから本当のことを言うはずが無いというトリックに。たった一言のセリフで、本当にタネも仕掛けも無いところに、さもタネや仕掛けがあるように見せてしまうのです。

 自分が思っている常識や思い込みほど実はもろいものは無い。その盲点を突いてくるのが、マジシャンであり詐欺師なのです。

 11月3日

 ネガティブシンキング。

 ものごとを何でも悪い方へ悪い方へ考えるネガティブシンキングは、逆に良い方に考えるポジティブシンキングに比べると悪いことだ、と思われているようだ。確かに、ものごとを良い方向に捕らえたほうがやる気は出るかもしれないが、それだけでものごとがうまくいくようなら世の中苦労はしない。最悪の場合を想定し、それに対する対応を考えておくこともまた重要なのだ。

 ポジティブだから良い、ネガティブだから悪いなんていうことは無い。どちらもバランスよく考えてこそ道が開ける。

 私は、リネで狩り場へ出るときは必ず、その場所で自分が死んでしまう状況やPTが崩壊する状況を想定する。そしてなるべくそのような状況に陥らないよう先駆けて行動する。それでも起きてしまったときのために、対応行動を事前に考えておくようにしている。徹底的にネガティブに考えることは、危機管理のひとつでもあるのだ。

 11月1日

 ギャンブラーの破滅。(Gambler's Ruin)

 統計論の有名な現象に「ギャンブラーの破滅」と呼ばれるものがある。個々の勝負において、ギャンブラーとカジノがまったく対等な条件で勝負をするギャンブルがあったとする。客も胴元も勝つ確率は半々、どちらが勝ってももらえる金額は一緒。フィフティフィフティの勝負である。もし、このような勝負を延々と続けた場合、ギャンブラーとカジノのどちらが儲かるだろうか?

 同条件の勝負を続けるのだから互いにトントンになるのではないかと思われがちだが、この問に対する答えは、ギャンブラーの破滅である。個々の勝負においてまったく対等な条件でギャンブルをしたのにもかかわらず、結果は必ずギャンブラーが負けてしまうのである。

 何故だろうか。それは、ギャンブラーとカジノでは所持金に圧倒的な差があるからである。ギャンブルには所持金がなくなればそこで勝負は終了する、という隠れたルールが存在する。そして、どちらが破産しやすいか考えればもちろん所持金の少ないギャンブラーの方なのである。例えば客が10万円を持って、一回に一万円づつ動く勝負に挑んだとしよう。それに対してカジノの所持金は何十億かである。この場合たった10回分客が負け越してしまえばそこで勝負は終了する。対してカジノ側は数万回負け越さない限り破産することは無い。どちらが破産しやすいかは言わずもがなであろう。

 つまり個々の勝負において完全に対等なギャンブルは、持ち金の多寡によって勝敗の確率が決まるのである。もっといえば、破産するリスクが高ければ、たとえ個々の勝負でギャンブラー側が若干有利な条件で勝負をしたとしても、破産リスクによって負ける可能性のほうが高くなる、ということが起こり得るのである。