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 3月26日

 諦めている。

 自分を含め、人間という者に対して、普遍なものなどありえない。

 いつまでも永久に続くような状況はない。

 言葉だけで、それを求めるような愚かなこともしたくはない。

 3月17日

 眠りたい

 眠りたいと思うのは、明日が大事な日で、そのときに準備万端、元気ハツラツ、ファイト一発、すっきりしていたいという欲望があって、だから、今のうちに眠っておこうと考えるわけで、つまり、「眠りたい」と思うから寝れないのだ。「眠い」という欲求ならば眠れるが、「眠りたい」という欲求があると眠れないのだな、ということを眠れないから考えた。新エピ楽しみ。

 起きていよう、と思うあまりに寝てしまう。逆もまた真なり。

 3月16日

 スクリーンショット

 去年あたりからスクリーンショットを撮ることが極端に減った。PCの容量の問題もあるのだけれど、SSを撮っても撮りっぱなしにしてしまい、再度見直すことが無いことに気づいたからだ。リネに存在する見たいものは、ほとんど経験した、ということかもしれない。本当に残して置きたいものはSSでは撮れない、という意味だ。

 携帯電話にカメラがついて以来、やたらと色々なものを撮影している人が増えたように感じるが、それらをじっくり見る時間が現代人には欠けているのでは?撮影すること自体で満足してしまっているのではないか。例えば、旅行に出かけるとき携帯を持っていかないだけでも、もっとたくさんのものが見え、もっとたくさんのことが感じられるだろう。

 3月10日

 リアリティ。

 色々なマンガの実写化が話題になっている。それはそれで、面白いところがあるのだが、元々のマンガが持っていた世界観をぶち壊してまで、リアライズすることには疑問を感じる。

 マンガを実写化したり、ゲームの画質をどんどん綺麗にしていったりすることは、実物に近づける為だけのリアリティであって、そこにできたものは、もともとそのマンガやゲーム自体が持っている世界観とは別のものだ。マンガやゲームの世界に、現実世界のリアリティを持ち込んでほしくはないな、と思うのは私だけだろうか。

 本来、その現実とは違った世界観こそが、そのマンガやゲームを魅力あるものにしていたはずだ。マンガやゲームは独自の世界を生むことが本来の目的であって、そのなかにリアルな世界観を持ち込むことは、創造性の放棄に等しい。

 単に、すでに存在している世界に近づけようという行為は、目的が明瞭であるし、模倣すればよいだけだから、新たな世界を創造するよりは簡単である。そして、誰にでもそれが理解できるから、アピールはしやすい。「凄いでしょう?」「綺麗でしょう?」ということが話題にはなっても、それは面白さとは別のものである。

 ゲームはどんどん綺麗になっているけれど、はじめてウィザードリィをプレイしたときの興奮はなかなか味わえない。線だけのダンジョンに記号とテキストだけのモンスター。しかしそこには確実にウィザードリィの世界があった。その記号に驚きと恐怖を感じた。

 小さい子どもは、おもちゃの機関車に自分の世界をイメージして遊ぶことができる。自分は運転席に座り、運転している感覚であり、その世界ではおもちゃの機関車を動かしている自分の手は存在していない。素晴らしい想像力である。

 なんでもかんでもリアライズされた今のゲームは、プレイするのに想像力を必要としない。しかし想像力を必要としない分、そこに描かれたものしか感じられない。それはどこまでいっても劣化現実世界であり、だからゲーム独自の魅力ある世界観を感じることが難しくなっている。

 マンガならマンガ、ゲームならゲーム、その素晴らしい魅力ある世界独自の「リアリティ」を追求して欲しいものだ。

 

 3月5日

 政治家に求める資質。

 国会の中継などをみているといつも疑問に思うのだが、質問をするほうも答えるほうも、すべてあらかじめ決められている答弁をしている。質問の内容も返答もあらかじめ文書で配られ、それをただ読み上げているだけなのだ。本会議や委員会の場でのやり取りで、新しい何かが生まれることもないし、意見の摺り寄せがあったり、譲歩が行われることも無い。すべてが事前に決められた台本のとおりに進行しているだけである。これで国の会議、国会といえるのだろうか。

 700名からの国会議員のお偉いさんが集まって、舞台劇を演じているようなものである。誰もが自分はこんなに凄いんです、仕事をしていますとカメラの前でアピールしているだけで、実際の政策決定は、台本を書いている一部の派閥の領袖や官僚によって決められているのだ。

 だから政治家になるのに、本人の資質はほとんど問われることがない。必要なのは、地盤・看板・カバンと昔からいわれるように、コネと金があってちょっと有名なら中身は無くてもよいのだ。台本を読んで党の決めた決定に静々と従うだけでいいのだから、逆にあれこれ考えない奴のほうが扱いやすい、なんて思われているかもしれない。

 大きな組織や、伝統のある組織では、個人の意思がすんなり通ることはない。何かおかしいなと思うことがあっても、それが通例、伝統ということでなんとなくナアナアになってしまう。すると、何かを変えようとする意欲のある人間はその組織を去るだろう。そうでない人間ばかりが残るから、何も変わらない。変化しないのは現状に満足し、変わりたいと思っている人間が残らないからなのだ。

 私が政治家に求める資質は、政治家になんかなりたくないと思っている人間である。それは、子どもを生みまっとうに育てあげている主婦であり、子どもたちと日々格闘しながら生きている教師であり、生命を救う医者であり、荒海に向かう漁師であり、丹精こめて野菜を作る農家であり、精一杯努力しているサラリーマンであり、探究心を失わない学者である。そんな普通の自分の人生を生きている人間である。長くて一期四年の政治家の仕事を全力で務め終えたら、また自分のあるべき本来の仕事に戻ってやりたいことをやる人間である。

 政治家を仕事にして、生きているような人間では絶対にない。