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 2月26日

 動機付け。

 鹿児島県の県立高校の「難関大の合格者に100万円の奨励金を支給する」との施策が話題になっている。

 お金で釣る教育だとの反対の声がある一方、奨学金と何が違うのか、経済的に助かるなど、多くの賛成意見が寄せられている。

 制度の有り無し論議は盛んなようだが、この制度に効果があるのか無いのかの話にはあまりなっていないようだ。

 統計学上、勉強をして難関大学に入れば、生涯年収が平均で数千万から億単位で変わることはわかっている。「難関大学に入れば1億円」というわけだ。でも、それは勉強をするための動機付けとなっているだろうか。目先の100万円なら動機付けになるのだろうか。

 実は現金というのは勉強をする動機付けとしては意外と弱いものだというのが研究でわかっている。勉強をするのはイケてる、カッコイイ。勉強をするのが楽しい。こう思わせることが一番効果的なことで、勉強をすると得になると説くのは効果が薄い。

 お金になるからやることって、できればやりたくないことなんだよね。

 2月25日

 拝啓 この手紙読んでいるあなたは
 どこで何をしているのだろう
 (アンジェラ・アキ『手紙 〜拝啓 十五の君へ〜』より)

 今の自分は15の自分を好きだけど、

 15の自分は今の自分を好きだろうか。

 どうしてそんな大人になっちまったんだよって怒ってるかもしれないな。

 でも、こう見えても結構うまくやったんだぜ。

 お前はもうちょっとうまくやれよな。

 2月24日

 神は細部に宿る。(建築家ミース・ファン・デル・ローエ)

 小金井公園の江戸東京たてもの園にジブリの立体建造物展を見に行く。普段は人気の少ない園内に行列ができていて、さすがのジブリパワーを感じる。

 ジブリ作品に登場するいろいろな建物に焦点を当てた展覧会。映画の中ではストーリーや登場人物の動きに目を取られて見逃しがちな建物の細部を原画や模型を使って解説していたので、映画とは違う楽しみが合った。

 ジブリ映画の凄いところは、なにげない背景のその細部に至るまで緻密に描き込んでいるところにある。お金と時間をかけられるからこそできることだが、だからこそ何度見てもいろいろな発見があって面白い。

 ストーリー的に毛嫌いしていた、ハウルやアリエッティも細部に目を向けてもう一度見なおしてみようかな。

 2月23日

 情けは人の為ならず。

 情けは他人の為にならないから掛けてはいけないと間違って覚えている人が多いという話がよく出るけれど、巡り巡って自分の為になるから情けを掛けなさいという本来の意味も、なんだか違うなと感じている。

 他人に優しくするのは自分の勝手な行動であって、そこに感謝を求めたり、見返りを望んだりするようなものではない。

 2月19日

 難解。

 ドリフターズの笑いが、自分たちの親の世代に受け入れれられなかったのと同じように、今の子供達が感じている笑いも自分たちの世代には理解し難いものとして映るのかもしれない。

 だとするなら、我々に求められるものは、理解しようとする努力と、新しい感性を受容する態度ではないか。

 どちらが良い悪い、面白い面白くないという問題では無いのだ。それはもうそういう流れになるべくしてなるものなのだから。

 2月18日

 魚花。

 漁獲量が減って高級魚化してるそうな。

 そういえば、ホッケ食べてないなぁ。

 そういえば、ホッケって呼ぶ人いなくなったなぁ。

 2月17日

 声優と学校。

 声優という職業が認知されるにつれ、声優になりたいという人間が増えてきて、その夢を実現させるべく声優育成の専門学校がいくつもつくられた。

 そのおかげだろうか最近の声優は、新人でも、どんな端役でも高い技術を持っている。演技はうまいし、キャラソンだって上手に歌える。ただ惜しむらくは、 個性がない。誰が主役を張ってもたぶん違和感がない。皆同じに聞こえてしまう上、この人でなければと思わせるものが少ないように感じる。

 それは学校というものの弊害の一側面なのであろう。与えられた課題を、教えられた方法にそって、どれだけ卒なくこなせるか、それが評価される。笑い方、 泣き方、怒り方、間のとり方、そういった技術はマニュアル化され、表現は画一化される。そこから生まれるのは天才ではなく優等生なのだ。

 大山のぶ代のドラえもんの声を真似してみろと言われれば、多くの声優が上手に真似できるに違いない。ただ藤子・F・不二雄の原作を読んでそこにまったく一から独創的なすばらしいドラえもんの声を吹き込むことができる人間はとても少ないのではないだろうか。

 知識や技術は欠かせないが、それは固定観念となって自らを縛る鎖にもなる。たぶんこれは学校や教育と名の付くもの全てにまつわる永遠のジレンマなのだろう。

 2月16日

 もう少し世の中なんてものを甘く見ても大丈夫だよ。

 大言壮語だって吐いてるうちに、サイズが合ってくるということもあるだろうさ。

 2月15日

 自己犠牲を謳う者ほど、他人に自己犠牲を強いる。

 自己犠牲なんて簡単に口にだす奴は信用出来ない。
 ましてや、それが他人の財布ならば。

 2月11日

 遊ぶということ。

 探索する必要がない、レベル上げの戦闘も早送りできて煩わしくない。そんなRPGに人気があるようだ。

 攻略本や攻略サイトを見て、最適ルートで全てのイベントをこなし無駄な行動を取らず、無駄な労力を割かずクリアする。そういうことに慣れてしまった世代には、探索もレベル上げも無駄な行動、苦行としか映らないのかもしれない。

 昔、リネージュもそのうち一週間でDKになれるようになるだろうなんて半分冗談で書いた記憶があるが、いつの間にかそれが当たり前になってしまった。

 そのうち、探索もレベル上げも自動で行われるようになり、人間がするのはガチャを回すだけ、なんてことになったりしてと半分冗談で書いてみる。

 2月10日

 今は学校でコーランのことを、より元の発声に近いクルアーンと教えているらしい。

 だったらりんごのことは、アッポーって教えているのかな。

 2月9日

 好きと嫌いじゃないの差。

 嫌いじゃないものはいっぱいあるけど、

 好きなものってあんまりないなぁ。

 2月8日

 祈る人。

 電車の窓の外を流れていく夜の街を眺めていた。小さな家やビルや商店に灯る明かりを見つめて、たぶん誰もが同じようなことを考えるだろう。

 あの窓の小さな明かりの下ひとつひとつに、今誰かがいて、その誰かがいろんなことをして生きているんだって。でも、そう考えたあとは、二種類の人間に分かれる。

 その明かりの下にささやかでもいいから幸せが訪れるように祈る人と、その明かりの下の幸せを羨んで呪う人と。

 心の底から祈る人になるには僕はまだ弱すぎる。

 2月5日

 飛行機。

 このところ飛行機の墜落事件が多いような。やっぱりコスト削減のための無理が色んな所に来ているのかな。

 安さと快適さの比較はよくなされるけど、実は安さと安全性も天秤にかけられているのかもしれない。それは客の目には見えにくい分だけ怖い。

 2月4日

 赤い人。

 帽子、上着、シャツ、リュック、手袋、ズボン、スニーカー身につけているもの全てが真っ赤な人をみた。

 スニーカーの紐まで赤で凄いなぁとよく見たら、たぶん元は白であっただろうナイキのロゴまで赤く塗りつぶされていて、何だか怖くなった。

 リネにいたらたぶんアライメント-32767だな。

 2月3日

 鬼は外、福は内。

 保育園や児童館で豆撒きをした記憶はうっすらある。折り紙で作った豆入れに豆を入れて、鬼の仮面をつけた鬼役の大人にぶつけていた。終わったあとはみんなで豆を拾いながら競って何粒食べた〜と数を自慢していた。

 今の時代だと、もったいないとか風習だとかいうことより、落ちたものを拾って食べるなんてという声がでるのだろう。投げた豆を拾って食べるなんてことはしなくなったし、そもそも豆撒きをするという風習も廃れてきている。

 何でもいいから粗を探して文句を言いたいという大人が一定数いる。そして文句を言われると、波風を立てずに処理してしまおうとする学校や施設の責任者が 相当数いる。そうしてあらゆるものごとは無難に何もしないという方向へ流れていく。大多数がそんなことは気にしていないよと思っていても。

 2月2日

 民主主義が多数決だというのならば、

 若者はマイノリティになるしか無いのか。

 2月1日

 責任の在処。

 政府の対応に問題がなかったか責任を問うとか、ここぞとばかりに与党を攻撃している野党。暴力的悲劇を政争の道具にするならそれはテロリズムと何が違うのだろう。

 危険だとわかっている地域に自らの意志で向かったのだから自己責任だという声。いじめられっ子にもいじめられる責任があると言うのに似ている。

 どちらの論調も大前提を忘れている。そもそも暴力によって他人の生命や財産を不当に奪い、自らの主張を振りかざすテロリストにこそ全ての責任がある。そこを履き違えてはならない。